酒郷側面誌(1)

源頼朝は池田の酒を飲んだとか、灘より古い池田酒が品質のよさや宣伝上手もあり、江戸期より前は銘酒といえば池田といわれた。
酒徒ならずとも興味をひく話しが司馬遼太郎の作品(歴史と小説「先祖ばなし」より 集英社文庫)にあるので、すこし長いので二回に分けて引用してみる。

酒郷側面誌

京都から山崎にくだって西宮にぬける街道を山崎街道といったり、西国街道といったりする。街道の北は北摂の山なみが迫り,やがて道が猪名川のふちにかかると、摂津池田の聚落があり、酒郷として古くから栄えていた。その後、酒の江戸送りなどのことも考えられて、造り酒屋の多くはこの山間の町から出て灘に移ったが,それまでは銘酒といえば池田郷のものとされていた。
要するに、灘の酒のふるさとと言うべき町である。
秀吉や桃山城下の諸大名たちも、おそらく池田の酒を盃に満たして酒宴をしていたのではあるまいか。
という頃より、さらに池田の酒はふるいらしい。江戸のころ、
「池田酒造の儀は、往古鎌倉御時代より以前の儀にて」
と、酒年寄りが幕府の勘定奉行に上申している。文書にいう、「鎌倉おん時代は廻船道も無之、鎌倉へ相廻し候酒の儀は、池田より鎌倉まで陸路馬付にて差下し候に付、いまもって酒二樽を一駄と唱へ……(後略)」。
この文書のいうとおりならば、源頼朝も池田の酒をのんでいたことになるが、陸路はるばると鎌倉へ送るについては、防腐のことはどうしていたのであろう。馬といっても馬車ではなく、馬の背に二樽をふりわけてのせたものであるらしい。これについては、二樽を一駄とよばれることで想像できる。しかし鎌倉へ酒を送ったといっても、鎌倉の府の武士どもの需要をまかなうほどに大量は送らず、おそらく頼朝だけが飲む献上酒であったのであろう。とすれば鎌倉で静御前の舞を見物したあの日の酒も、あるいは池田の酒であったかもしれない。
池田の酒郷が、天下の酒造地にぬきんでた名声を得たのは、水のよさ、醸造法のよさ、その北部の丹波杜氏の腕のよさによるかもしれないが、ひとつには以上によってもわかるように宣伝上手によるものでもあった。
家康の天下が成立したのは関ヶ原の役であり、それが確立したのは大坂ノ陣である。冬ノ陣のとき家康は大和から河内平野に入るべく、慶長十九年十一月十七日、関谷峠を越えた。そのとき峠の西のほうからいかにも富商といった町人のむれがあらわれ、
「われらは摂津池田郷の酒屋満願寺屋とそのなかまでござりまする」
と、言い、御陣中のおなぐさみにといってたずさえてきた酒を献上した。むろん酒ばかりではなく、満願寺屋が音頭をとってかきあつめた多額の金子を、「御陣中の費えの足しにでも」といってさしだした。すでに池田郷では家康の天下はゆるぎないとみて、いわば政治献金をしたのであろう。その時点での池田郷は、豊臣秀頼の直轄領であった。ついでながら秀頼は関ヶ原のあと、家康によって摂津・河内・和泉(三州あわせて現在の大阪府および阪神間)七十余万石の一大名の分限にその所領を縮められていた。
それだけに、家康の側からいってもこの池田郷のひとびとが馳せつけたことはうれしかったであろう。なぜならば豊臣家をほろぼすことについて家康の脳裏にあったのは、大坂、堺その他池田郷などの富裕町人の感情や向背ということであり、その
危懼の一端を(右の)池田のひとびとは除いてくれたのである。
家康は大いによろこび、この池田郷に対し朱印状を下した。その醸造を優遇するだけでなく堺などと同様の交易地としてみとめるというものであり、いわば政府公認の醸造地になったようなものであった。こういう知恵才覚のみごとさは池田のどういう条件のなかからうまれてきたのか、ふしぎなような気がする。
かすかに考えられることがひとつある。池田は、戦国以前は五摂家の何家であったかの所領がこの付近にあった。その後戦乱のために京の公卿は地方の大名の知るべを頼って都を落ちたが、池田にも公卿は来なかったにせよ、官人は多く落ちてきて酒造家に頼ったであろう。その官人のなかに、御酒寮の官人がいた。
御酒寮とは京の御所で酒をつくる役所で、その官人の家には醸造の技術書が多く所蔵されていたであろう。そういう御酒寮の者が池田郷の酒造家に秘法を教えたと言い伝えられている。しかし、秘法などよりもむしろ、これらの京者たちは中央政治のからくりというようなものを、雑談のあいだに教えて行ったにちがいなく、すくなくとも、「御所とか将軍家とかいってもたいしたことはないわさ」などと、いった畏れなさの気分を植えつけたであろう。豊臣秀頼家や家康などを怖れていてはこれほど機敏な行動もとれないし、そういうもともとの発想も湧かないのにちがいない。
満願寺屋は、その後「養命」という酒を出し、池田郷第一の富を誇ったが、江戸中期以後は衰え、それにかわって大和屋や鍵屋などが栄え、そういうこともあって安永三年(千七百七十四年)満願寺屋の子孫は他家の栄えを憎み、「権現さまから御朱印状を頂戴したのは当家である」と幕府に訴え、その恩典を独占しようとした。
他の酒造家三十七軒はこれにおどろき、「あの御朱印状は池田郷一円にくだされたもので、満願寺屋の独占すべきものではない」と争って出たため、幕府は二年にわたる審査の結果、喧嘩両成敗としてこの官許をあっさりとりあげてしまった。以後、池田郷は恩典をうしない、そういうことも一因になって年々衰微したという。
もっとも池田衰微の原因の一つは、やはり灘郷の勃興ということが大きいであろう。池田郷の右の御朱印騒動が決着した安永五年(千七百七十六年)ごろには灘郷がそろそろ海上輸送によって江戸へ酒を出しはじめているらしい。海上輸送で江戸へ酒を出すなどいまでいえばアメリカへ物を輸出するよりもはるかに困難で、よほどの資本力を必要としたが、この安永五年という年が池田と灘にとって象徴的なことに「上灘江戸積酒造家中」といった輸出業者の同業組合が灘でできあがっているのである。その後、年々灘がさかえていく。(つづく)

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