福島正則と酒

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先きに綱淵謙錠による福島正則の酒にまつわる史談[聞いて極楽]から「酒乱の殿様」を引用したが、[戦国と幕末]の池波正太郎にも福島正則の記述があるので紹介する。

「福島正則と酒」

前章略
福島正則という大名が、いかに酒を愛し、酒のこころを知っていたかは、前に述べた。
正則は、少年時代の名を[市松]といい、加藤清正などと共に、豊臣秀吉の小姓となったのが世に出るはじまりであった。
そのころの秀吉は、いうまでもなく織田信長の家来・木下藤吉郎であったわけだが、のちに信長が世を去り、藤吉郎が豊臣秀吉となって天下の大権をつかむに至るや、正則も清正もされぞれに出世をした。
正則は、かの[賤ヶ岳の七本槍]の筆頭とよばれるほど、若いころから武勇にすぐれ、
「於市の槍は、わしが宝ものじゃ」
などと、秀吉をよろこばせた。
それで福島正則もよい気もちになり、あるとき、僚友の加藤虎之助(清正)をつかまえて、
「おれが槍は、宝ものだそうな」
得意げに自慢するや、加藤清正が、
「殿は、おれにもそう申された。於虎の槍は、わしが宝ものじゃと……」
「なあんだ、つまらぬ」
二人とも、ばかばかしくなり、大声に笑い合ったという。
このはなしは、太閤秀吉の[人づかい]のうまさがユーモラスに出ているが、戦国の時代も、正則が若かったころは、どことなく、主人と家来、戦友と戦友の胸に通じ合うなにものかがあって、正則も大へんにあたたかいこころのもちぬしであったらしい。
堀尾忠氏の家老で松田左近という武士を、福島正則は非常に気に入っていて、たまさかに会うと、二人きりで酒をくみらわし、語り合った。
ある時……。
伏見城にいる豊臣秀吉のごきげんうかがいをすました堀尾忠氏が、城の大手門を出て来ると、一足さきに出ていた福島正則が待ちうけていて、
「このたびは、お国もとから松田左近どのを召しつれませぬか?」
「いや、召しつれてまいりましたが、大坂にて病いにかかり、臥せっております」
「それは、いけませぬな」
その、松田左近が泊まっている大坂の旅館をきくや、正則は、尾張・清洲に二十四万石の大名でありながら、供もつれず只一人、馬を飛ばして大坂へ駆けつけた。
このあたりは、江戸時代の大名に見られぬ戦国の世の大名の仕様をしのばせるではないか。
「病いときいたが、大事ないのか?」
と、大坂の旅館へ駆けつけてくれた正則の友情のあつさに、松田左近は感動の泪をうかべ、
「かたじけのうござる」
「なんの、して病いは?」
「殿の御供をして、こちらへ出てまいる途中、足をくじきました。不覚のいたりでござる」
「では、怪我か……」
「はい」
「では、酒をのめるな?」
「はい。のめまする」
「のもうではないか」
「はい」
と、松田左近は自分の家来をよびつけ、ふところから金を出し、
「清洲侍従さまへのおもてなしじゃ。酒をもとめてまいれ」
「はっ」
「侍従さまとわしとは、いつも、こうして、先ず一こん。それから、また一こんと……」
と、いつも二人でくみかわす酒の量をはかりながら、酒代の金を数えている松田左近をうれしげにながめていた福島正則が、
「もてなしは受けようが……そのように、たくさんのんでは、おことの足の傷にも悪いではないか」
「いや、かまいませぬ。せっかくにお見舞い下されまいたおこころざしに対しても、たくさんにのまねば……」
「いや、そのようにもったいないことをしてはならぬ。体にわるい酒を買うては金がもったいない」
と、押しとどめ、
「二人して、なみなみと一杯ずつ、それでよろしいではないか。それならば、こころうれしゅう御馳走になろう」
と、いった。
「それでは……」
というので、二人は木盃の一杯の酒をたのしみつつ、語りあかしたのである。
二十四万石といえば、一万何千人もの家来をもつ大名で、しかも福島正則は、天下にそれと知られた人物である。
それにしては、いかにもつつましく、質素な酒のたのしみ方におもわれるが、戦国時代の大名、武士の酒のたのしみ方というものは、およそ、こうしたものであったろうとおもわれる。
それほどに、そのころの人びとは上下を問わず、物を金を大切にあつかったものらしい。
また、それだけに……。
彼らは、しみじみと、ふかくふかく、酒を味わっていたにちがいない。

関ヶ原と大坂落城 角川文庫

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