深草の少将 百夜通いを検証(?)する

世界の美人ベスト3に選ばれる「小野小町」。
1,000年以上も前の話。小町に魅せられた深草の少将が、彼女の邸へ百夜通うという謡曲「通小町」。
作家山村美紗氏は[エッセイで読む日本の歴史:小野小町はやっぱり一番美人のお姉さん]のなかで、
伏見の深草の少将が小町を見そめて百夜通った話は有名で、ロマンに満ち女の夢と思っていた。
ある時、少将宅から山科の小町の宅までの距離が、自動車で図ってみたら5.5km(往復11km)ある。
[少将は実在したと思っていた頃]それも坂あり街灯なしやらで、とても毎夜11kmは通えないだろうと思っていた。
成就の前夜、降った雪により門前で凍死した少将。
小町が糸を通した九十九個目のカヤの実を手に、倒れたという哀れさ…。
(山村美紗は)やがて少将は架空の人物で、話も創作と知ってがっかり。
人々はこの話を信じており、少将が通った道は「不成就道」とよばれ今でも受験生は歩かないという。(文春文庫)

早い話が閑。作り話でも結構。どう時間をつぶそうかと考えていた矢先、この架空の人物や創作物語に惹かれ歩く目的をこじつけた。
少将と小町邸までの道はどうなのか、どんな所かに興味も湧く。

14日日曜の半日つぶしに良好なので、「御一人様」歩きをした。
京阪電車で伏見(深草)の「墨染」駅へ。少将邸跡に建つ「欣浄寺」へ。

アクシデント発生。
近くにあるはずが見つからないのだ。
周辺を歩き回り戻りして、地元人(?)に聞いても「分からない」「知らない」ばかり。ならば老人に…「×」。

インターネットに頼ったのが小一時間後。
アホくさいような見つかり方。もっと早く携帯を使えばよかったと悔やむ。
民家の並びの曹洞宗の寺が少将跡で、塀の周りには墓石が列んでいた。
玉砂利を踏んで本堂前に近づくと「…昔深草少将の屋敷があったところと伝えられ……」と看板に。
寺の前の道が「不成就道」のようだ。

この寺から少将になりすまして、小町邸の「随心院」へこの道を歩いていく。
疎水に沿って北上、府道35号(大津淀線)で右折し、歩行者道を東進する。
上り坂の前で民家が消え、下って行くと果樹園が現れる。
名神高速道の遮光壁と併行するようになると、正面に音羽山から醍醐山に続く山並みが目に入る。
坂を下り切ったところが山科で、「勧修寺」の裏手あたりに着く。
「山科川」を渡り暫く行くと「小野」の里で、伏見深草から1.5時間程で「随心院」に着く。
少将は馬や籠否、牛車に乗らずに歩いて100日往復したとしたら「athlete」。
否否、そんなはずはない。少将は貴族だから軟弱なはず、歩けるだろうか。
当時は悪路だったろうが高低差の大きな道ではない。小町に気に入られることだけを念じ歩いた と、しておこう。

山門をくぐり築地塀に沿って庫裡へ。拝観料を納め靴を脱いで境内を見て回る。
小町の墓や彼女が使用したという井戸が残っている。
本堂の裏の林の中に少将や貴族から贈られた手紙、1000通が埋められているという塚があり少将の実在を伺わせている。
門跡寺院だけあって清閑な佇まいだ。
彼女の邸宅跡はないが彼女も眺めたであろう醍醐の山々に、当時と同じ夕日が差してきた。
「六歌仙」中唯一の女性としか分からず、出生地や生没年など不明な小町。
絶世の美人(証明は無い)というからいろんな話がつくられ残ったのだろうが、想像の道には違いない。
紅葉前の閑散とした随心院を後に,「小野」駅から地下鉄で「六地蔵」駅へ。
気がつけば京阪電車内だが、京橋で乾きを止めるためだ。

次回(11月4日未定)は慶応四年(1868)正月三日午後五時頃の京都。
鳥羽街道で薩摩軍と幕府軍が衝突、最初の一発の砲弾が薩摩側から発射された…。
幕末まで続く鳥羽伏見の戦いのきっかけとなった場、「小枝橋」辺りを歩く。

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