日本人GIN,BRANDYを製造

先頃国産で味を語れる高級GINが相次いで発売され評判を得ているが、初のGIN BRANDYが江戸時代後期、長崎で生産されたという話しはご存じだろうか。

長崎オランダ商館長として1799~1817年の間滞日したH.ドウフ。当時のオランダはフランスに占領されたり、英国と戦って負け国が消滅。(1807~1812の間に)本国からの物資は途絶えたが、敗戦を日本側に伝えることも出来ず、苦悩していた。日用品等も無くなり不便していたオランダに日本側は物資を贈り援助した。そしてドウフはこの状況下で日本人がGINやBRANDYを造ってくれたことをその「日本回想録」に残している。

「日々の食料品及びその他の必需品は、幕府の命によって長崎会所より規則正しく供給されたばかりではなく、長崎奉行は毎週二、三回人を遣わして、何か不足の品はなきや、また用達人が正当に供給するやと問わしめ、彼らは力の及ぶかぎり我らの惨憺(さんたん)たる境遇を慰めんと努めたり。

目附 茂伝之進は我らのため、ジン酒を蒸留せんと苦心し、予はこれがためにたまたま予の手許にありたる大なる蒸留釜および錫管を貸与せり。彼はよほどこれに成功せしも、ネズ松の樹脂の異香を除去すること能わざりき。ただし彼の醸造せるブランディは実に優良なりき。

我らは1807年にフーデトラウがはなはだ少量の赤葡萄酒を持ち渡りたるほか、以後全くこれを見ざるため、彼は我らのために野生の葡萄の果実より葡萄酒を搾取せんと企てしが、良き成績を得ざりき。彼はまた赤き液汁を得てこれを発酵せしめしが、これは葡萄酒にあらざりき。

とにかく各人が我らのためにかくのごとく熱心に尽力せられたり。その間に予はビールを醸すことを試みたり。予はショメル(Chomel)およびボイス(Buys)の家庭辞書によりて、白色にてハーレムのモル酒(白ビールの一種 mol)の、香味ある液体を得るまでにすすみたれども、予はこれを充分発酵せしめ得ず。ために二、三日以上は保存する能(あた)わず。かつ予はホップを有せざりしかば、これに苦味を加えて幾分永く貯蔵し得るよう為すことも不可能なりき。

藤本義一 洋酒こぼれ話 文春文庫