幕末のこと 司馬 遼太郎「歴史と小説

(前段省略)
なにをくよくよ川端柳
水の流れを見て暮らす
という唄をつくった長州人高杉晋作ほど飲んで遊んだ男もなかったであろう。
藩内の俗論党政府をクーデターによって倒したとき、芸者連に三味線をひかせて踊りながら占領した政庁へ乗りこんでいったという人物である。
高杉にとって、酒、革命、女は、かれの血が要求している等価値のものであった。
かれは乱世に生まれて英雄となった。治世に生まれておれば、単に放蕩児だったであろう。
俗論党政府を倒したとき、かれは当然新藩庁の首脳たるべきところだったが、「男子たるもの、艱難は倶(とも)にすべきも、富貴は倶にすべからず」といって藩庁を去り、この攘夷論者がにわかに洋行をするといいだした。高杉の卓越したカンは、もう攘夷主義が単なる迷妄だということがわかりかけていたのである。むろん洋行は幕府の禁制だが、その禁制も幕威もあってなき存在になっていた。
高杉は藩庁から三千両の洋行費をせしめ、子分の伊藤俊輔(博文)をつれて下関まで出かけた。が、金がある。つい遊んだ。「綱与(つなよ)」という店にあがってそのあたりの芸者末社を総揚げにし、連日連夜の大さわぎをやった。伊藤は高杉のけたはずれな行動や思考には馴れてはいたが、このときばかりはこわくなった。
高杉はどなりつけて伊藤も遊ばせた。高杉は愛妓おうのをよび、三日遊んだ。
この豪遊が藩庁にきこえ、同志の野村靖之助が苦言を呈しにきた。
野村は、わしの諌止(かんし)をきいてくれねば腹を切る、といった。高杉は起きあがって、
「立派に切れ,おれが介錯してやる」
と刀をひきつけた。野村はほうほうのていで退散した。手がつけられなかった。
さらに長崎へ行った。長崎でも飲み、ついに洋行費は一文もなくなった。が、高杉は長崎の英国商人グラバーの邸で同国の横浜領事ラウダに会い、英国が長州を応援する意思があることを知った。この事が高杉に別な思考方向をあたえた。倒幕の可能なことを知った。三千両の遊興は高いものではなくなった。
この翌年、高杉は長崎にあり,また洋行すると言い出し、伊藤を使いにして国許へ金策にやった。伊藤は井上聞多にたのんだ。藩金をひきだすことにかけては天才的な腕のある井上もこれには閉口した。高杉は千五百両を都合しろ、といってよこしている。
藩庁は、当然激怒した。前回の使いこみの始末もすでに藩庁では知っている。その上、もう一度金をだせという。「高杉の酒と女の仕出しを藩ができるものか」と藩の会計ははねつけた。そこを井上はこの男一流の口から出まかせの詭弁で、ついに金をひきだした。井上はこの癖が直らず、維新政府の大官になってもこの手ばかりをつかって、明治の貪官汚吏(どんかんおり)の代表のようになった。
一つには兄貴分の高杉が、そういう訓練をしてしまったのだろう。
金の工面がついたころ、高杉は長崎で、オテントウサマ号という軍艦を、藩にもことわらず、勝手に買いこんだ。四万両である。金は下関で長州藩が支払う、と高杉は外国商人にいい、その軍艦に乗って下関に帰ってきた。
「遊興だけでなく、軍艦まで買ってきた」
というので藩庁は怒った。すでに藩庁には金がなかった。そこを井上はまた奔走させられ、藩主の撫育金から出す、ということでやっとかたがついた。藩主は高杉に甘かった。
「前の洋行費は高杉に賞与ということで帳消しにしてやれ」といった。
高杉はオテントウサマ号は長州三十六万石を救う、と予言した。そのとおりになった。幕府の第二次長州征伐のとき、丙寅(へいいん)丸と改称して大島郡の沖で幕府軍艦と戦い、さらに小倉城攻撃に威力を発揮し、ついで鳥羽・伏見戦ののちの倒幕軍の海上輸送に大いに役立った。がそのときは高杉は病死していた。
累年の奔走、戦闘、酒、女がたたったのである。この男は虚弱ではなかったというどころか風邪一つひかぬ壮健な体をもっていたが、不養生が過ぎた。
慶応三年四月十四日、臨終のとき、父母、それに妻のまさ子、一子東一が枕頭にいた。愛妓のおうのもいた。おうのはずっとつききりでかれの看病をしていた。
父の小弥太が「遺言はあるか」と問うと別にありません、といい、料紙を筆にとって、辞世の歌を書きはじめた。
面白きことも無き世を
面白く、……………
とまで書いたが、あとは体力がつきた。筆を落とした。
直後に絶命している。
高杉は、畳の上で死ぬのは残念である、と臨終の寸前、何度もいった。が、これの死もかれの多くの同志の非業の死とかわらない。これは自刀でこそ死ななかったが、この男の死因もまた、革命と酒と女であった。歳、二十九歳。

幕末のこと 司馬 遼太郎「歴史と小説」

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