元旦に記紀の世界をうろついて(奈良県/大阪府)

面白い本を見つけた。
村井康彦著「出雲と大和」がそれ。(岩波新書)
興味がない方とはここでお別れだ。

巻頭に要旨がある。
【大和の中心にある三輪山になぜ出雲の神様が祭られているのか。
それは出雲勢力が大和に早くから進出し、邪馬台国を創ったのも出雲の人々だったからではないか?
ゆかりの地を歩きながら記紀(古事記、日本書紀)・出雲国風土記・魏志倭人伝等を読み解き、古代世界における出雲の存在と役割にせまる】

三輪山の神が出雲系とは…。
邪馬台国は出雲の勢力で創られ、それが大和の地とか…。
それは何故?。大いに興味をそそられる。
出雲の神は山陰、中国、近畿へと伝播して足跡を残していくが、行けるのはせいぜい大和・奈良だ。
本の中から神社を選び予定が無い元日と2日、5日(徒歩)の昼前から、自転車で出かけることにした。

[本によると]
【邪馬台国は魏の滅亡する前後に滅んだ。卑弥呼が死んだ頃倭国の争乱が始まる。
戦後タブーだった「神武東征」説を取り上げ、(筆者は)真正面から向かう。
記紀によれば九州から出立した集団(神武軍)は瀬戸内を東に進み、浪速の渡(大阪市上町台地辺り)を経て大和を目指す。
当時の寝屋川を遡り河内の日下(くさか:東大阪市日下町辺り)から上陸。
竜田越えを試みたが道が険しいので引き返し、東方の生駒山を越えて国の中(大和)に進入したところ、待ち受けていた長随彦(ながすねひこ)と孔舎衛坂(くさえのさか)で激戦となる。
邪馬台国としては長随彦の働きで神武軍を破り、侵攻を生駒でくい止めた。
当時日下は日下江と呼ばれ広大な入江だった。
孔舎衛坂は現在石切神社があり物部氏の祖、饒早日命(にぎはやひのみこと)が祭られている。
長随彦は邪馬台国連合の総大将でもあり、この饒速日命に仕えた豪族だった。
長随彦の勢力地は生駒山を挟んで富雄か一帯から大和郡山、西は東大阪市。北は交野市辺り。】

孔舎衛坂:訪れたのは1月5日。近鉄石切駅下車。
孔舎衛坂は旧生駒トンネルから下った辺りで、すぐ見つかった。
住宅が生駒山の中腹まで迫り当然戦場の面影はないが、生駒の山系だけが当時と変わらない(だろう)。
「当時東大阪のほとんどが海だった」というが今、海ははるか彼方だ。
幼稚園の看板が「孔舎衛」となっていたので、それに導かれ迷わず行けた。
帰りは夕闇迫る参詣道を下り、参拝客で混雑する「石切神社」に立ち寄る。
地下鉄けいはんな線の「水走」辺りが当時の海岸線だろうか。
勝手な判断でその日を終えた。
【饒早日命は天磐船(あまのいわふね)に乗って河内に下り(磐船神社へ)、大和に入った という物部氏の祖神で、長随彦の妹と結婚したとする】

大阪府交野市の「磐船神社」を訪れたのは1月2日。
近鉄富雄駅下車。
自転車で富雄川に沿って北上、県道7号は勾配を感じないくらいな緩い登り。
始めに生駒市の長弓寺内の「イザナギ神社」に立ち寄る。
始めに神社があって後に寺が出来たのか…。こじんまりとした神社だが、長随彦との因縁に歴史を感じる。

引き続き北上、R163高山大橋交差点を左折して富雄川から離れた。
小さな峠を越え北田原大橋交差点を右折して更に北上。
今度は淀川に注ぐ天野川に沿って磐船渓谷に入り、森に囲まれた磐船神社へ。
天磐船に見立てた巨岩が天を突く…。
異様な岩だからこそ古代人が伝説を仕立てのだろう。
岩の下の小さな社で祈祷が始まり、太鼓の響きが辺りの静寂な雰囲気を破った。

富雄地域の中心とみられる長随彦の本拠地、添御県坐(そうのみあがたにいます)神社と登弥(とみ)神社を訪れたのは元日。
近鉄富雄駅下車。
元旦で閑散とした駅前を離れ、寒風に逆い県道7号を富雄川沿いに南下。
10分弱走り左折して狭い道に入ると、すぐに添御県坐神社(奈良市三碓)に行き着く。
祈祷を受ける人で列をなした横を通り本殿へ。本殿の裏山は古墳だ。
興味深い話題がある。
ここの住民の一人は
「自分たち住民の祖先が長随彦に従い神武に石を投げて抵抗したものだ」
と、それを誇りにしている人が現代もいるといい、庶民の記憶を侮らずその深層を探ることが歴史を理解する上でいちばん大切 と著者は説く。
神武に反抗したことで、長随彦の名は明治期に歴史から削られた。

更に南下して県道7号を大和郡山方面に向かい登弥神社へ(奈良市石木町)。
薄暗い森の中に対の小ぶりの神殿が見える。
大神宮と違い両神社とも参拝するのは地元の人だろうが、守り敬ってきた時間が2000年。
風で流れるたき火の煙も神話の世界まで届きそうだ。

【神武軍は生駒山金剛山と続く山並みに行く手を阻まれ、南下して紀伊半島を迂回し、熊野辺りに上陸、大和を目指した。
(紀ノ川ルートを外したのは、葛城の勢力とも戦わねばならないから)

卑弥呼亡き後の邪馬台国連合は王国を守るため総力を結集。
しかし神武軍は墨坂(宇陀市榛原西峠)を越え磯城(しき 桜井市の三輪山麓)を打ち破りついに大和に入ってきた。
ところが神武軍はそこで長随彦にてこずっている。何度戦っても勝てない。
再び桜井方面で神武軍と戦うが金色のトビが飛来し、長随彦の軍兵が気力を失ったので長随彦は神武に使者を派遣。
「私は昔、天磐船に乗って天降った饒速日命を君と崇め仕えているが、天神の御子が二人もいるはずがない。なぜ人の国を奪おうとするのか」
その後長随彦は神武が天神と知ったが、戦いを止めなかった。
そこで饒速日命の方が、いまや危険な存在となった長随彦を殺し、軍兵を率いて神武に帰順する(国譲り)。
勝った神武は大和に入り宮殿を造り、大和朝廷を成立させる】

出雲系の神を祀る神社を巡ったが、深い山の山頂が見えないようにその始まりも雲に隠れている。
代々地元の住民により祀られ、科学万能の今も祈りの内容に変わりはない。
正月は神社で、結婚はキリスト。葬式は仏教という曖昧さが日本人と思う。
古神道でいう山とか岩、古木に神サンが宿るというのがいいが、神に位を付けたり「あの世は靖国神社」とは思えない。まして人間が神になるなんて。
清潔で静寂な鎮守の森、その古い小さな社に親しみを感じるし、敬って守り続ける人が住むこの国がやっぱりいい。

「正月くらい家で飲もう」
連れがいれば「チョッと」となるが、暗くなる前に真っ直ぐ帰ることにした。

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