ビール初体験

徳川幕府が派遣した海外使節団の第一回は、万延元年(1860年)一月、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカに渡った、新見(しんみ)豊前守の一行である。このとき、使節の一行七十七人は米艦ポーハタン号に搭乗、その護衛艦の名目で派遣された感臨丸には、提督・木村摂津守喜毅、艦長・勝 麟太郎以下九十六人が乗り組んでいた。長い鎖国の後に突然アメリカ人と接触したのであるから、百七十三人もの異文明の初体験者を生んだわけだ。
たとえば福沢諭吉の「福翁自伝」を読むと、サンフランシスコに直航したカンリン丸乗組みの一行が、アメリカ人にホテルに招待されて、はじめてシャンパンを飲まされてびっくりする場面がある。<徳利の口を開けると恐ろしい音がし>たのである。その音をピストルと間違えて、思わず腰の刀に手をかけた者もいた、という話も遺っている。
いっぽう、ポーハタン号の使節の一行がシャンパンを飲まされたのは、ハワイのホノルルに寄港し、国王の宮殿で高官たちに会ったときである。<盤上にコップを銘々に与えてサンパン酒をすゝめける>と、副使村垣淡路守の日記にある。しかし、村垣は別にこれを驚いたとは書いていない。すでに飲んだことがあったからであろうか。
この時同行した仙台藩士玉虫左太夫の「航米日録」によると、まだ太平洋の真ン中にいた二月三日の正午に、ポーハタン号は祝砲二十一発を撃っている。玉虫は<又酒一壺アリ,ビール(酒名)と云フ、一喫ス。苦味ナレドモ口ヲ湿(うるお)ス二足ル>と報告している。これが玉虫のビールの初体験だったわけだ。
日本人がビールという酒の名を耳にしたのは、八代吉宗の享保九年(1724年)春に参府した和蘭カピタンの一行から幕府の有司が海外事情を聞いたとき、大通詞今村市兵衛と小通詞名村五兵衛が通訳し筆録した「和蘭問答」に、<麦酒給見申(むぎざけたべみもうし)候処、殊外悪敷(ことのほかあしき)物にて、何のあじはひも御座無(ござなく)候、名はヒイルと申候>とあるあたりが古いものであろうが、安政元年(1854年)、ペリー再航のさいの将軍への贈物の中にビール三樽があったという。
文久二年(1862年)十月、榎本武揚たちがオランダに行く途中、南シナ海で遭難して救助されたとき、オランダのギニー号という軍艦の上で、気付け代わりにワインやビールを飲まされている。
綱淵 謙錠  「聞いて極楽」より 文春文庫

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