それからだいたい150年

吉田松陰が初めて江戸に留学する時、私費でなくて藩費でした。江戸の桜田藩邸に部屋を貰って一室三人で、他の二人も留学書生です。食事は藩邸の台所から出る。米は一日四合一勺で、あまり副食物をとらない当時の条件でいえば、若い者なら五合以上は必要ですが、松陰はその官給米だけで我慢している。おかずは自分もちで、松陰は稀に鰮(いわし)を買う。大抵は漬物か金山寺味噌か、らっきょう、梅干といったようなもので食っている。他の書生も大なり小なりそうだったでしょう。それであんなに幕末のエネルギーが、よく出たものですね。

土佐のいわゆる勤王の志士というのは、脱藩の志士が多いんですが、それは山間部から出て来る奴が多いんで、米の飯なんか年に一二回しか食わない連中でしてね。特に檮原(ゆすはら)から出て来た那須信吾とか那須信平という連中なぞ、檮原は土佐のチベットといわれているところですから、脱藩して、旅に出て初めて米の飯を食った。かれらの場合は松陰よりももう一つ貧しくて、米の飯を食うだけでも贅沢だったようです。

越後の河井継之助という人は、金持ちの家の子供ですが、古賀塾の寄宿舎に入って、矢張り沢庵に白い飯だけを毎日食っている。ただし、彼は金持ちの子ですから、月に一回、柳橋で芸者をあげて、ご馳走の食い溜めをしたそうです。藩に帰って役人になって庄屋の家などに泊まると、河井様の好物たからといって桜飯が出る。越後長岡でいう桜飯というのは、味味噌を飯に炊き込んだ混ぜ飯で、色が桜色をしているからそんな名があったのでしょうが、当時の日本の食生活は、今の栄養学の常識から云えば話にならない。

松陰の親父さんの百合之助というのは、小禄ながら歴とした藩士ですが、この家では一カ月に一回だけ食膳に魚がつく。百合之助はそれを拝んで食ったといいます。栄養学的にいえば、幕末のエネルギーは話になりませんなあ。

日本歴史を点検する 「壮烈な凛々しさ」より海音寺潮五郎 司馬遼太郎対談 講談社文庫 

何年毎に更新が必要な「食品衛生法」の管理講習会。衛生管理の一通りを聞いて気がかりなのは食品のムダ。ただ事で済まされない廃棄問題。鳥インフルエンザやBSEで処分するのはまだしも、問題なのは凄まじいほどの残飯等の廃棄量だ。

牛 3頭/一秒、豚 5頭/秒、鳥  1100羽/秒で処分される動物。折しも国連が2050年までに「水」がらみの紛争で、1/4人が被害者といい出した。「人間は恐ろしい」といった講師が印象的だ。