酒豪力士の雄

(中略)

力士は酒豪というのが通り相場であるが、昔の力士の方が無茶飲みをしていても、十分に相撲を取れた。一年間に本場所が二回。しかも明治四十二(1909)年に国技館ができるまでは、幕内は一場所九日間、十両以下が五日ずつという呑気さにくらべ、今は関取衆が年間九十日の本場所をつとめる。とうてい酒に酔い痴れるわけにはいかないのである。

横綱玉錦や佐賀の花の師匠であった二所ノ関親方は、明治後期の名力士海山である。大豪常陸山が大関時代に二度かれに敗れたことで有名であるが、かれは希代の酒豪をもって鳴った。二升や三升の酒は朝飯前、のべつ酒に浸っているといわれた。

日清戦争のころ、入幕してまもなくだが、ある日、本場所の相撲場に姿が見えぬ。師匠の友綱取締(初代海山)が痛く心配して、心あたりを探させたところ、馴染みのある茶屋で前の晩から飲み続け、すっかりご機嫌のところを発見された。

これを連れもどして、やっと取組にまに合わせた。たいへんな酔いようで、フラフラしながら締込みを締めて土俵に登った。ところが一旦仕切りに入ると、シャンとしてりっぱな立合で、あっさり相手を投げとばした。そのまま悠々引きあげ、さっさと件の茶屋にもどり、また飲み続けて夜を徹した。

その翌朝になって「あっしまった。昨日場所に行くのを忘れた!こりゃたいへんだ」とばかり、大急ぎで部屋に帰り、友綱親方の前に膝まずいて、「昨日は場所を休んで申し訳ありません」と、しょげた顔で平あやまりにあやまった。友綱は吹きだした。「なにを言うんた、お前は昨日もちゃんと相撲をつとめて、勝ったじゃないか」と言って聞かせたものたから、海山は大いに面くらい引き下がったが、昨日のことは、まったく酔眼朦朧、無意識的につとめたわけである。

この海山について、さらによく知られた話がある。有名な大倉喜八郎が、向島の別邸に大男の外人をまじえて力士連を招待した。その西洋人は力自慢をすることしきりで、力士たちをも見くだしたようすで、しきりと力競べを挑んだ。けれども相手にしないでおとなしくして酒だけをたのしんでいた。大倉家にたいしても、ここでは遠慮しておくがよいと思ったからである。

ところがこの外人がなかなかしつこく、力競べに応じないのは、弱味があるからだろうと、いよいよ不遜になる。それで海山がたまらなくなり、酒も十分に入っていることとて、矢庭に碁盤を一つ持ってきて、この上に立てと外人に示した。外人はそこにあがったところ、碁盤の裏側に右手を突っこみ、一腰いれると、静々とこれを持ちあげ盤上の外人をよろめかすことなしに、高く突きあげたのである。この怪力には、当の外人も、並居る連中も、あっけに取られ驚嘆することしきりであったという。

明治の後期、常陸山が二代目梅ヶ谷と並んで横綱になるころまで、相撲界は力士の所行にいささかやくざめいたところがあり、紳士の相手にするものではないともされた。侠客て近いような感じで、衣装なども派手だった。

この傾向にたいし、常陸山はいわば粛清に乗りだし、その堂々たる貫禄で指導力を発揮して、力士とは「(力)のある紳(士)」なのだと強調し、かれらの行儀作法をやかましくしつけた。

明治四十(1907)年には、欧米一周の旅行もしているほど、海外に出た力士として先駆者でもあるから、なかなかハイカラでもあった。酒の強いことも抜群だったが、ウイスキーもたいていコップで生(き)のまま飲む、というよりもあおったのである。相撲ぶり同様豪快な飲み方で、かつ金銭に恬淡としており、じつによく散じた。角界の大ボスになり、たくさんの横綱・大関を門弟から出しもしたので、反感を寄せる敵も少なくなかったわけだが、実力の重みで、出羽海部屋の黄金時代を産みだしたのみならず、相撲道を大いに向上させることにつくした。

酒が語る日本史 和歌森太郎 河出書房  デ