適口

適口とは食物が口に合ふことである。すべて食物は自分の口に合ふものが一番美味である。

南宋の林洪の「山家清供」に謂ふ。宋の太宗が或時近臣の蘇易簡に問ふ「食物では何が最も珍品か」と。蘇が答へて「口に合うたものが珍品(適口者珍)でございます。臣(わたくし)は齏汁(セイジュウ)の美味なことを、つくづく感じました。或寒い夜のこと、熱燗で痛飲して大酔し、夜半忽ち目ざめて咽が渇いたので、月明かりの中庭に出て見ると、残雪の中に齏を漬けた瓶が置かれてあったので、雪で手を浄め、其の汁を汲んで数碗貪り飲みましたところ、其の旨さは仙厨の珍味も之には及ぶまいと思はれるほどでございました。それで氷壺先生伝を作って其の事を記しておきたいと思ひながら、未だ其の暇がございません。」と申上げると、天子は笑って、成る程と仰せられた。

(中略)さてこの齏(セイ)はアヘモノと訓ずるが、実際は食品を和(あ)へるに用ゐるミソの類で、生姜や蒜(にんにく)・橙(ゆず)の皮などを細かく切ったり砕いたりして、塩や醤(みそ)・酢などで味を附け、其れでもって膾(さしみ)などを和へたりするのである。また野菜を細かく切って塩漬けにして食ふ物をも謂ひ、字の構成から推測すると、原始的には韭(ニラ)が普通に用ゐられたらしい。更に其の水分を多くして漬けて、汁を飲むことも有り、其れが「齏汁」になるものであるらしい。

酒中趣 青木正児 筑摩叢書