粋人酒仙 亀田鵬斎

寛政の改革で、はたして諸人の風儀がピシッとひき締まったといえるかどうかじつは怪しい。江戸の遊び場は結構繁盛していたようで、酔客の往来も、かなり著しいものがあった。

〈途中略〉

芸人といえば、役者、芸妓、たいこもちと親しく交わり、気さくに酒を飲みあった学者に亀田鵬斎がいた。かれは江戸に生まれ、神田駿河台や下谷に住んだ生っ粋の江戸っ子学者で、その義侠心の強さでも知られていた。

越後に旅したとき、いつも常宿にしている旅宿の娘が、あまりに貧乏な家の生活をたすけるべく女郎に売られようとしているのを見かねて、即座に持ち合わせの百両をあたえたという。かれは書道でもすぐれた大家だったから、越後路での各所で揮毫したさいの礼金などの百両だったのである。ために駕籠にも乗れなく、歩き歩き江戸に帰ったのがちょうど正月間近い年の暮れ。留守宅も貧乏で、正月支度は何もしていない。妻女に合わせる顔もなく、だまって病と称し寝込んでしまったという話がある。この妻というのが、もと芸妓だったものだという。

田沼時代の恐荒続きのころ、難民のことを思い、いても立ってもいられず、蔵書をいっさいたたき売って、義損金を送ったりしたともいわれる。しかし自身のくらしもけっして楽ではなかった。折衷学派の井上金峨に師事して、大いに学業を進め、熊本の相良侯などもついて学ぶところがあった。

けれども、なかなか遊び人でもあり、門弟を前に講義中に、吉原から使者が来て、馴染みの遊女の手紙をさし出すと、これを読んで「自分はこれから吉原に行ってくる、皆ゆっくり休憩していてくれ」と言い残して、旗本武士その他の門人をそのままにしたまま出かけた、などという挿話もある。

寛政異学の禁で、亀田鵬斎のような学者に教えをうけている旗本たちの出世が阻まれることになったためにだんだん門人が減少し、その塾はさびれていった。しかし井上金峨がせっかく尾張侯への仕官をすすめてきても、この時勢の不自由さをなげき、憤慨するのみで、栄達の道を考えようとはしないでいた。

それだけに鵬斎の器量は高く評価され、その揮毫した書の値うちは、いよいよ高まった。しかしむやみに多くは書かず、一筆一筆きわめて丹念に筆を用い、満足するまで人には与えなかったそうである。

かれはまた大の酒豪であった。自ら「酒徳経」という、仏教のお経のようなものをつくっていたが、そこには、

吉野竜田也(や)墨田川

酒賀(が)無礼婆(無ければ)只之処(ただのとこ)

劉伯倫也李太白

酒乎(を)飲禰婆(飲まねば)只之人

酔酔酔酔酔薩阿(よいよいよいよい、よいやさあ)

と記されていたそうである。また、

酔来飲’酒酔来睡   此法不’仙又不 ‘禅

百両黄金何可’換   従来此是我家伝

という、いかにも酒仙に徹した詩をつくって、酒と共に生きる己れを自讚していた。酒の飲みすぎにもかかわらず、長命を保ち、晩年に医師伊沢蘭軒に厄介になっていたが、酒を飲むことを禁じても守れまいと見たのか、最後まで酒を飲み続けていたという。

いよいよ今日あたりは死ぬだろうと自覚したとき、朝早くから大きな硯にたっぷり墨を浸ませ、茶番用の引き幕を取りださせて「今日は是限り」と大きく書いた上、その日のうちに七十四歳で没した。文政九(1826)年のことである。

酒が語る日本史 和歌森太郎 河出文庫