止酒の詩

陶淵明に「止酒」と題する詩がある。あの名だたる瓶盞病者(へいさんびょうしゃ)が酒を止めようなんて弱音を吐くには、何か子細があったであろが、理由は分からない。その詩はこういうのである。(漢文略)

居所は町に住むのを止めて

ぶらぶらとのどかに暮らす。

座るのは高い木の蔭とかぎり

歩くのは柴の戸の内とかぎり、

旨い物は畑の青菜とかぎり、

大よろこびは子宝とかぎって。

 

今まで酒を止めなかったのは

酒を止めれば楽しみがないからで、

暮れに止めれば眠られず

朝に止めれば起きられぬ。

今日は止めよう、明日は止めようと思えど

止めると血のめぐりが悪くなる。

止めたら楽しめぬとばかり考えて

止めて得(とく)がいくなんて信ぜられなかった。

 

ところが、止めた方が善いと始めて覚(さと)った

今朝こそは本当に止めるぞ。

これから一ぺんに止めてしまって

扶桑(ふそう)の島へでも行ってしまおう。

酔いをさまして素面(しらふ)になって

千万年どころか、いつまでも。

「止」の字づくしで面白う詠じてあるが、「本当に止めるぞ」とは虚言(うそ)の皮。けだし末段の六句はアイロニィで、酒を止めるぐらいなら、もう浮世には用はない、遠い遠い扶桑の孤島にでも行ってしまおう、と言うわけらしく、扶桑へ行くことの不可能に近いと同じく、酒を止めることは不可能に近いのである。扶桑は日出(いず)る処、中華の東二万余里に在ると言い伝え、後生あるいはわが日の本をもってこれに擬(ぎ)している。酒を止めようと思えば気が遠くなる、遠い扶桑にでも行くような気がする、とこれが淵明の心底であったであろう。酒を止める必要に迫られた原因は貧の病か、それとも「素問(そもん)」にもあるただの病か。淵明の自伝にも「性酒ヲ嗜(この)ムモ、家貧シクシテ常二得ルコト能(あた)ハズ。親旧其(そ)ノ比(かく)ノ如クナルヲ知リ、或ハ酒ヲ置イテ之ヲ招ク」といってあるから、貧の病で酒を止めようなんて考えるわけは断じてあり得ない。してみればやはり、ただの病であったであろう。どうも瓶盞病者は余病を併発しやすい。これは誠に遺憾なことである。〈つづく〉

酒中趣 青木正児 筑摩叢書