徒然草 「花は盛りに」

花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあわれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(さわ)ることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れることかは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕う習ひはさることなれど、殊(こと)にかたくななる人ぞ、「この枝散りにけり。今は見どころなし」などは言ふめる。

(通釈)

桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。物事の最盛だけを観賞することがすべてではないのだ。

たとえば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思いこがれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外のようすを目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり、優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。

今にも花開きそうな莟や桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。作歌の事情を記した詞書(ことばがき)も、「花見に出かけたところ、もうすでに花が散ってしまっていて見られなかった」とか、「用事があって花見に出かけず、花をみなかった」などと書いてあるのは「実際に花を見て」と書くのに、劣っているだろうか。そんなことはない。

確かに、桜の散るのや、月が西に沈むのを名残惜しむ美意識の伝統はよくわかる。けれども、まるで美というものに無関心な人間に限って「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたから、もう見る価値はない」と、短絡的に決めつけるようだ。

第百三十七段 徒然草 兼好法師 武田友宏 角川ソフィア文庫

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