寛政(1800年頃)の酒仙 亀田鵬斎

寛政異学の禁で、亀田鵬斎のような学者に教えをうけている旗本たちの出世が阻まれることになったためにだんだん門人が減少し、その塾はさびれていった。しかし井上金峨がせっかく尾張侯への仕官をすすめてきても、この時勢の不自由さをなげき、憤慨するのみで、栄達の道を考えようとはしないでいた。

それだけに鵬斎の器量は高く評価され、その揮毫した書の値うちは、いよいよ高まった。しかしむやみに多くは書かず、一筆一筆きわめて丹念に筆を用い、満足するまで人には与えなかったそうである。

かれはまた大の酒豪であった。自ら「酒徳経」という、仏教のお経のようなものをつくっていたが、そこには、

吉野竜田(や)隅田川  酒賀(が)無礼婆(無ければ)只之処(ただのとこ)  劉伯倫也李太白  酒乎(を)飲禰婆(飲まねば)只之人  酔酔酔酔酔薩阿(よいよいよいよい、よいやさあ)

と記されていたそうである。また、

酔来飲酒酔来睡  此法不仙又不禅  百両黄金何可換   従来此是我家伝

という、いかにも酒仙に徹した詩をつくって、酒と共に生きる己を自讚していた。酒の飲みすぎにもかかわらず、長命を保ち、晩年に医師伊沢蘭軒に厄介になっていたが、酒を飲むことを禁じても守れまいと見たのか、最後まで酒を飲み続けていたという。

いよいよ今日あたりは死ぬだろうと自覚したとき、朝早くから大きな硯にたっぷり墨を浸ませ、茶番用の引き幕を取り出させて「今日は是限り」と大きく書いた上、その日のうちに七十四歳で没した。文政九(一八二六)年のことである。〈おわり〉

酒が語る日本史 和歌森太郎 河出文庫